- 資料記号
maregaA15
- 標題
フォンド・マレガ ファイル A15
- 年代
- 1687年~1753年
- 主年代
- 元禄15年(1702)、元禄12年(1699)、享保12年(1727)、元禄14年(1701)
- 年代注記
- 貞享4年(1687)~宝暦3年(1753)。年代未詳レコード44件
- 記述レベル
ファイル
- 数量
- レコード数934件(古文書908件(含、断簡1・付箋1)、綴紐17件、袋5件、帯紙2件、イタリア語メモ2件)
- 物的状態注記
- A15は、5つの江戸期の紙袋入の文書群が保存用綿テープでひとまとまりに管理され、全体の内容を示したイタリア語によるカード(A15.1)が添えられていた。袋内の文書群はいくつかのまとまりをなす場合もあり、A15.5では2つのまとまりが(A15.5.1、A15.5.2)、マレガによるとみられる番号が記された厚手の洋紙を帯にして、麻紐で括られる。また、A15.6ではA15.6.103が10点の文書からなり、この分のみイタリア語のメモが記された厚手の洋紙を帯にして巻かれる状態であった。
- 出所/作成
- マリオ・マレガ。マレガ収集文書の主な出所は臼杵藩宗門方。
- 地名
- 大分県臼杵市・大分市、東京都目黒区碑文谷
- 役職等
- サレジオ会宣教師
- 伝来
- 1953年にマリオ・マレガよりバチカンへ寄贈された。
- 範囲と内容
ファイルA15は、臼杵藩政下の村役人・寺の住職・武家組の頭などから臼杵藩宗門方に提出された類族に関する報告文書であり、袋の表書きには「出生子書附入」(1袋)、「類族出生」(4袋)とある。実際に収納される文書も、その大半は出生に関するものであるが、一部、死去・嫁取り・養子縁組・離縁・引越・奉公などの文書も混在する。類族が領外に出て死去したことなどにより他領の関係役人や寺から送られて来た文書なども少数ながら含まれる。出生関係以外の文書数は表1の下端「出生以外」の欄に明らかなように、A15.4~6では出生以外の文書が混在する。特にA15.6では袋表書にみえる享保17年(1732)の文書はみられず、様々な年次の文書が収納される。
A15.4の出生以外の文書18点は、嫁取り10点、聟取り6点、養子2点であり、収納される出生届との直接的な関係は見出せない。A15.5の出生以外の文書19点は、死去10点・養子7点・聟取り2点であり、一部において出生届と密接な関係がみられた。すなわち、収納される死去届10点は、全てが袋表記期間内に生まれた者の届であった(表2)。特にA15.5.1.1.4.1・2やA15.5.1.1.7.1・2は、同一人物の出生届と死去届を一緒に折りたたんでいた。他の死去届でも全て本袋内に当人の出生届を確認できた。
A15.6の出生以外の文書は408点であり、出生届は25点に過ぎない。しかも、すべての文書が袋に記された年次と異なる。出生届25点(表3)には、A15.2の袋の期間「元禄11年11月21日~12年6月20日」に続く年次の文書が含まれている。近接した年次の出生届関係の文書でも保管管理の状況が大きく異なったことになる。また、A15.6では出生届のすべてがA15.5と同様に死去届と一緒にされている。A15.2のような出生届単独のものは一つもない(表3)。出生以外の文書は、死去397点・奉公2点・宗門誓約2点・引越6点である。A15.6は、中身の大半が入れ替わってしまった資料群といわざるを得ない。
一方、A15の文書の中には、端裏書の冒頭に臼杵藩宗門方が記したと考えられる「〇」(A15.5.1.15・A15.6.74.1・A15.6.103.4.1・A15.6.115.2・A15.6.154.1)や「〇三」(A15.5.2.36.1・A15.59・A15.6.73.1.1・A15.6.105・A15.6.108.1)、「△」(A15.6.61.1)などが記された文書がみられており、今後、他のファイルの情況と合わせて考察すべき点である。
さらに、元禄11年(1698)・12年・15年の出生届では朱による書き込みがみられた(写真1)。文書冒頭に記されたものが多く、いずれも「生帳一之内」などと情報元を示して書き出される。これは藩宗門方が管理する「生帳」(出生簿)の第一冊目に記されることを示すと思われる。他の朱書情報などを総合すると「生帳」は一から十六までを確認でき、少なくとも16冊存在したことになる。また、A15.2では「生帳一之内」から「生帳十六之内」までがほぼ順番に並べられていた。貞享4年(1687)、臼杵藩は幕府発令の「切支丹禁制覚」を藩の重役たちに伝え類族の監視を開始しており、朱書との関連も考えられる。なお、貞享4年の文書にはこの朱書が全くみられないが、これは全てが死亡届であることが主たる理由と思われる。本朱書はA15においては出生届にしか記されていないからである。この朱書は元禄15年(1702)を最後に姿を消し、その後は端裏書の頭に朱点が記されるという例(写真2)がみられるようになる。享保11年(1726)~14年あるいは本ファイルにおける最後の年号である宝暦3年(1753)の出生届にもそれが記されている。そして、この端裏書の頭の朱点と本文表題周辺の「生帳」から始まる朱書の両方が記された文書は本ファイル内には1点もみつからなかった。
- 使用言語
- 日本語・伊語
- 記述日
- 2017/12/5
- 参照用画像