- 資料記号
maregaA24
- 標題
フォンド・マレガ ファイル A24
- 年代
- 1624年~1879年(年代未記入文書や概要メモ・新聞紙等は除く)
- 主年代
- 年代記入文書198点中、寛文期(1661-1673)24点、延宝期(1673-1681)49点。 年代註記:寛永12年(1635)~明治12年(1879)
- 記述レベル
ファイル
- 数量
- レコード数396件(状311点、綴3点、竪帳8冊、横帳8冊、包紙26点、紙片27点、新聞1点、封筒8点、袋1点、紙縒2点、原稿1点)
- 物的状態注記
- ローマ・サレジオ大学図書館所蔵「Marega・Collection」の一部として伝来した本資料群(A24)は、2015年2月の同館確認調査時には、MaregaArchivesというまとまりで捉えられ、一部について文書を厚手の用紙に挟み整理し、番号を付与していた。番号は1~43まであったが、21と30のものは見当たらなかった。これに続く文書は、角封筒または大分県立図書館の角封筒や、大分県立先哲史料館の整理用封筒などに複数の文書を納める形で保管されていたものの、番号は付与されていなかった。なお、目録は未作成であった。全体的に傷みの激しいものや、本来1点であった文書が糊剥がれによって別々に把握された場合もあった。バチカン図書館への移動においては、こうした状態に留意し、変更を加えることなく移動された。
- 出所/作成
- マレガ。原出所は臼杵藩宗門方、出羽国最上郡泉田村奥山家(詳細不明)など。
- 地名
- 大分県臼杵市・大分市、東京都調布
- 役職等
- サレジオ会 宣教師
- 伝来
- A24は、ローマ・サレジオ大学図書館が所蔵し、バチカン図書館が管理する(2020年現在)。本文書群は、1980年代前半、サレジオ会の故溝部脩神父と大分県立図書館の故赤峯重信氏とが東京都調布のサレジオ神学院の調査において、同学院食堂の棚の上の段ボール箱の中から発見し、サレジオ神学院においてキャビネットで保管された。2001年に大分県立先哲史料館の秋季企画展「豊後キリスト教史」において一部が公開されたが、2005年頃に溝部神父がローマ・サレジオ大学図書館にこれらを送った。サレジオ神学院にマレガ収集文書などの一部が伝来した理由は、マレガが1950年にサレジオ神学院、翌年にサレジオ短期大学の教師を勤めたことと関連すると見られる。なお、1953年、マレガは大分で収集した文書のほぼすべてをバチカンに寄贈したが、A24の文書群がその対象からはずれたのは、サレジオ神学院に別置されていたためと考えられる。サレジオ大学図書館に送られた文書群(A24)は、「Marega・Collection」の一部としてキャビネットに保管されていたが、傷みの激しいものが多く、サレジオ大学図書館の受け入れの目録は未作成であった。2016年5月、本文書群は、修復などのために、バチカン図書館が受け入れた。
- 入手源
- マレガ。収集文書の多くの原出所は臼杵藩宗門方。他に出羽国最上郡泉田村奥山家などを出所とする文書群も含まれるが、これはマレガが古書店などから入手したものであろう。
- 範囲と内容
バチカン図書館での調査は、サレジオ大学での保存状態を踏まえて実施した。物的状態註記に記した21と30に相当する文書を特定できなかったため、A24.21、A24.30を欠番とした。A24の多くは、臼杵藩宗門方を原出所とするものであり、マレガの整理番号やそれに類すると考えられる番号が記された文書は158点であった。また、年代を確定できる文書は198点であり、最も年代が古いものは、寛永12年(1635)の5点であった。「きりしたん宗門御改ニ付御起請文前書之事」(A24.4)は、山奥村の市蔵の家族、小者、名子について作成された文書で、「終ニきりしたん宗旨ニ不罷成」、善法寺の旦那であると記し、日本の神々とともにゼウスやキリスト等へも誓うという日本誓詞と南蛮誓詞を融合させた「起請文前書」に、各自が血判等で確認し、善法寺が署名・花押等で証明している。「きりしたん宗門御改ニ付御請状之事」(A24.3)は、名塚村に住んでいる宅蔵坊が寺内で生活している者に「きりしたん宗門」は一人もいないと証明したものである。これらの文書を踏まえて、臼杵藩が各村組に作成させたものが「きりしたん宗門御改之御帳」である。「きりしたん宗門御改之御帳」(A24.2.1)は、柴尾村組の男女合計526人、起請文数72通をとりまとめたものである。合計を記した個所に「男合弐百六拾九人、内五人ハ前きりしたん、女合弐百五拾七人、内五人前きりしたん」と記されており、柴尾村組に男女10人の転宗者がいたことがわかる。このように、近世初頭における臼杵藩の切支丹禁制政策の状況が伺える文書が含まれている。
文書点数の多い17世紀後半の文書では、寛文12年(1672)から延宝4年(1676)までの婚姻や養子縁組等に伴った旦那寺の変更を、旦那寺から宗門奉行に届けた文書が48通ある。また、豊後崩れにより捕らえていた森村の五左衛門の妻が籠死したことを、臼杵藩五代目藩主稲葉景通が江戸にいた長崎奉行川口宗恒に報告したことに対する元禄4年(1691)2月26日と見られる返書も含まれる(A24.7)。
また、A24には臼杵藩を出所としない文書が少なからず含まれていた。たとえば、A24.53の8点は杵築町・藩関係、A24.55の22点は杵築藩領生地・宗近組関係、A24.63~67では23点の臼杵藩士戸上家文書、A24.72.2.1~A24.72.3.37の52点は新庄藩領の出羽国最上郡泉田村奥村仁兵衛家文書、A24.72.1.1・A24.72.1.2は大坂南組綿袋町年寄綿屋徳右衛門に関するもの、 A24.84.1~A24.84.5は、駿河国安倍郡腰越村に関するものである。なお、マレガによる調査・研究メモは少数であった。
- 使用言語
- おおよそ日本語375件、伊語19件、英語2件
- 記述日
- 2019/09/30
- 参照用画像