- 資料記号
maregaA19
- 標題
フォンド・マレガ ファイル A19
- 年代
- 1697年、1713年、1714年、1718年、1719年、1721年
- 主年代
- 1713年、1714年、1718年、1719年、1721年(年不詳1点と紙縒を除く)
- 年代注記
- 元禄10年(1697)、正徳3年(1713)、正徳4年(1714)、享保3年(1718)、享保4年(1719)、享保6年(1721)
- 記述レベル
ファイル
- 数量
- レコード数は、A19.1は1点(カード1点)。A19.2は376点(古文書370点、紙袋1点、綴紐2点、資料群を説明した断簡1点、包2点)。A19.3は433点(古文書428点、綴紐1点、紙袋1点、新聞1点、ツツミ紙1点、紙縒1点)。A19.4は210点(古文書201点、紙袋1点、紙縒8点)
- 物的状態注記
A19は、カード1点(A19.1)と3つの資料群(A19.2、A19.3、A19.4)から構成される。
A19.2は、「正徳三年巳十一月廿一日ゟ同四年午六月廿日迠 類族死失」と記された江戸期の紙袋(A19.2.0)に収められていた類族の死失に関する資料群である。資料の作成年代は袋書きの通り1713~14年であり、袋にも「1713-14」とのペン書きがある。
A19.3の文書群は「類族死失 享保六丑年六月廿一日 同十一月廿日迄」と記された江戸期の紙袋に入れられ、その上から包装紙で包み、さらに1938年2月26日付けの新聞紙「THE OSAKA MAINICHI &THE TOKYO NICHI NICHI(英字版)」で包まれた上、麻紐で十文字に縛られていた。袋内の文書群はA19.3.2の47点のみ紙縒紐で一括され、他は寺と村を差出人とする同一案件の死骸改証文2通を重ねて一緒に巻き込まれていた。ただしA19.3.1.61の法音寺からの死骸改証文の場合は、村からの文書が付せられていなかった。
A19.4は、文書群が「享保三戌年十一月廿一日ゟ同四年六月廿日迄 類族婚儀、所替証文、養子離別、剃髪、御直参奉公人附届、御家中又者奉公人、家内引越、出入付届証文、崩家、庄屋譲証文」と記された江戸期の紙袋に入れられていた。袋内の文書群は、個別2通を除いて紙縒で八つにまとめられていた。
- 出所/作成
- マリオ・マレガ。日本の古文書は臼杵藩宗門方を原出所とする。
- 履歴
- フォンドと同様
- 地名
- 大分県臼杵市・大分市、東京都目黒区碑文谷
- 役職等
- サレジオ会宣教師
- 伝来
- 1953年にマリオ・マレガよりバチカンへ寄贈
- 入手源
- フォンドと同様
- 範囲と内容
A19.1は、A19.2 ~A19.4の資料群をイタリア語で図書カードに説明したもので、「Documenti manoscritti riguardanti alla persecuzione della Chiesa Cattolica in Giappone」「No. M.80.81.82 e altri due」「A.D.1713~1801」と書かれる。
A19.2の大半を占める類族の死失証文は、①村(村役人と五人組)・町(町年寄と五人組)を差出人とする文書176点、②武士を差出人とする文書4点、③移住先の幕府領からの伝達文書2点、④寺院を差出人とする文書182点からなる。なお、④の文書182点の内5点は江戸の寺院から送られたものである。類族死亡にともなう死骸改証文類は基本的に村・町、武士からのものと、寺院提出のものと一対をなして宗門方に保管されていたようである。なお、A19.2には、①寺院が類族であったことを示す資料(A19.2.9.1、A19.2.9.2、A19.2.158.1、A19.2.158.2)、②庄屋の身内が死亡した場合の見届け体制を示す資料(A19.2.10.1、A19.2.124.1)、③本人同然の者が死亡した場合の塩詰処置を示す資料(A19.2.96.7.1、A19.2.96.7.2)などが見受けられる。とりわけ①のA19.2.9.1とA19.2.9.2は、野津黍野村了仁寺の開基で、キリシタンを仏教徒へと教化する中心となった玄順の妻が転び切支丹であったことが記されている。またA19.2.158.1とA19.2.158.2は、キリシタンを受け入れた野津の寺院の一つ正光寺の先住の妻が切支丹宗門転本人同然であったことを記しており、村社会への浸透状況を検討するうえで興味深い。
A19.3には、袋の表題とは関係のない出生届が8通混入している。その内の7通までが紙縒紐で一括されたA19.3.1.2の中にあった。また8通の内6通は、早世であったことにより、死骸改証文(村と寺からのもの2通)と一緒にまとめられたものと考えられる。子供の出生と死亡の間の日数は、長いもので1ヶ月以上であり、これが2件ある。他の2通の出生届は死骸改証文を伴っておらず、なぜこれらの出生届が単独で本資料群に入れられたのかは詳らかでない。本資料群中の出生届8通は、以下の通りである(表3参照)。
①死骸改証文と一緒にまとめられていたもの
A19.3.1.2.3.3 / A19.3.1.2.13.2 / A19.3.1.2.14.2/A19.3.1.2.16.2 / A19.3.1.2.19.2 / A19.3.1.2.21.2
②死骸改証文を伴っておらず出生届単独で納められていたもの
A19.3.1.2.17 / A19.3.1.90また、死骸改証文を発給した庄屋と寺、及びそれぞれの発給数は次表(表1、表2)の通りである。庄屋数は43、寺数は34である。
A19.4は、全ての文書が臼杵藩領内の村役人や武家組の頭などから臼杵藩宗門方に提出された報告文書である。その内容は、紙袋表書に記されているように、類族に関して多岐にわたっており(表4)、類族の増減に関する「出生」・「死失」以外の全ての内容を含むと考えられる。また、婚儀や養子・離別・引越に関する文書は、関係する双方の村役人などが報告しており、臼杵藩宗門方は2つの村から差し出された2通を巻き込んで保管していたと考えられる。
また、元禄10年(1697)の2通及び年不詳(酉年)の1通を除き、収納されていた江戸期の紙袋表書に記されていた享保3年(1718)11月21日から享保4年(1719)6月20日までの文書が納められている。このことから、この文書郡には臼杵藩宗門方の整理・管理の痕跡が色濃く残っていると考えられる。
またこの文書郡は紙縒で八つのまとまりに分けられているが、各まとまりは提出月ごとのまとまりでも内容的なまとまりでもなく、混在している。このまとまりが、臼杵藩宗門方によるものかは不明である。
- 使用言語
- 伊語1件・英語1件(新聞)・日本語1006件(古文書、紙袋、包)
- 記述日
- 2018/10/1
- 参照用画像