資料記号

maregaA2

標題

フォンド・マレガ ファイル A2

年代

1613年~1949年

主年代

江戸時代全期、昭和前期

年代注記

慶長18年(1613)から昭和24年(1949)までの年号が確認できる。年号が明記されているもの、ないし推定される文書は80件あり、それら年号の内訳は、江戸時代のものが74件、昭和が6件である。江戸時代の年号は、38件が17世紀、20件が18世紀、16件が19世紀のものとなっている。

記述レベル

ファイル

数量

レコード件数260件(古文書90件、包紙12件、こより紐1件、ツツミ紙5件、筆耕原稿14件、イタリア語メモ20件、ローマ字メモ13件、イタリア語・ローマ字メモ2件、メモ3件、葉書3件、刊本6件、印刷物2件、紙片4件、封筒85件)

物的状態注記

古文書・刊本・印刷物が、関連するメモ・筆耕原稿・葉書・紙片などとともに大小の封筒に入れられ、49程度の小単位になっている。古文書の中には、包紙やツツミ紙によって包まれているものもある。帳簿類に若干の汚損・虫損などがみられるものの、保存の状態は概ね良好である。

出所/作成

本ファイルの直接の出所・作成はマリオ・マレガであるが、彼による蒐集文書(古文書)が中核となっており、それらの本来の出所・作成は、臼杵藩をはじめとする佐伯藩・岡藩、熊本藩の関係者、及びそれらの藩の領民・寺院などである。古文書のほかにも、マレガ自身が本ファイルを形成する過程で筆記した種々のメモや、周囲の人物が作成した古文書の筆耕原稿、知人よりの葉書、種々の人物の手になる刊本・印刷物などが含まれている。

範囲と内容

本ファイルは、マリオ・マレガが『豊後切支丹史料』正編の編纂のため、自身で蒐集した文書の中から抽出・整理した文書群である。ファイルは大きく4つのサブファイル(A2.1~A2.4)から成っており、それぞれのまとまりの中には封筒に入れられた小さなファィルが合計49程存在する。封筒には、マレガが蒐集した原文書のほか、マレガによるイタリア語及びローマ字のメモ、筆耕原稿、その他関連資料が収められている。ほとんどの封筒の表には、中に収められている文書のマレガ番号(マレガが文書の蒐集・整理をした際に付与した文書番号)のほか、丸付き数字、イタリア語のメモなどが、マレガによって書き記されている。

では、本ファイルの構造と『豊後切支丹史料』正編の構成とは、どの関係になっているのであろうか。そのことを考える際にまず手がかりとなるのは、各封筒に記されている、①から㉙までの丸付き数字である。『豊後切支丹史料』正編は、序章と附録を含め全16章の構成をとっているが、文末の表からみて取れるように、①から㉙までの丸付き数字は、封筒に収められた文書の『豊後切支丹史料』における掲載順を示したものであることが確認できる(丸付き数字を基準にすると、A2.2~A2.4のサブファイルの順序が『豊後切支丹史料』の章立ての順序に対応しておらず―本来はA2.2→A2.4→A2.3―乱れていることに気が付くが、これは文書を撮影する際に現状の秩序を優先したことによるものであり、順番が乱れていることに構造上の特別な意味はない)。また、これらの封筒には、丸付き数字とは別に、例えば“pag.7”“pag.8”のように(A2.2.2.0.1)数字が書き記されているものが30件余りある。実はこの数字は、封筒に収められている文書の翻刻が掲載されている、『豊後切支丹史料』正編のページ数(pagina)を示したものであることが確認される。こうしたことから、本ファイルの整理は、『豊後切支丹史料』正編が刊行された昭和17年(1942)より後のある時期に、同書と付き合わせながら行われたものであることがわかってくる。 ところで、A2.1~A2.4の各サブファイルは、それぞれどのような意味をもったまとまりなのであろうか。文書目録によりながらそれぞれの内容を概観してみると、次のようになるであろう。

A2.1:寛永14年(1637)に勃発した島原の乱と、慶応3年(1867)に起きた浦上四番崩れに関する記録。
A2.2:寛文8年(1668)から翌9年のキリシタン摘発事件に関する文書。
A2.3:A2.2と同じく寛文8年のキリシタン摘発事件のほか、殉教、臼杵藩の類族調査、佐伯藩の類族統制、宗門改に関する文書。
A2.4:A2.3と同じく宗門改に関する文書のほか、類族の統制、踏絵に関する文書や切支丹法度など。

こうしてみてみると、サブファイル間で重複する内容もあり、A2.1~A2.4というまとまりは、何か意味があって分類されたものではないように思われる。マレガが文書を整理・保管する際、便宜にまとめられたかたまりなのではなかろうか。

前述したように、本ファイルは『豊後切支丹史料』正編の素材となった文書群であるが、同じ内容の文書や大部の記録などは不採録・抄録などの処置がとられており、本ファイルの文書すべてが『豊後切支丹史料』正編に採録されているわけではない。また、『豊後切支丹史料』正編の第14章「伴天連追放文」に採録された文書2点と、第9章「棄教請文」に採録された文書4点のうち2点、第13章「宗門禁令書」に採録された文書5点のうち3点は、本ファイルの中には見当たらない。その事情を直ちに明らかにすることはできないが、たとえばA2.4.3.1.0の封筒に記されたイタリア語のメモは、そのことを推測する上で一つのヒントになるかもしれない。すなわち、同封筒には“N: 743 dato al Papa nel 1947”と記されており、史料集刊行後の昭和22年(1947)、本ファイルの中にあったマレガ番号743の文書を、マレガがローマ法王(Papa)に献上している(dato)ことがわかる。つまり、このマレガ番号743の文書のほかにも何らかの事情で、マレガ自身の手によって本ファイルから文書が抜き取られている可能性があるのである。そこで注意してみてみると、『豊後切支丹史料』に採録されたものではないが、マレガ番号779・同780の文書など、文書本体がなく包紙だけが残されているケースが本ファイルに存在する(A2.4.3.4.1、A2.4.3.4.2)。それらの包紙が収められている封筒(A2.4.3.1.0)には、他の文書については“c’è”、すなわち「(この封筒の中に)ある」と注記されているものの、マレガ番号779・同780の2点については「封筒」「箱」などを意味する“Buste”という注記が付けられており、それらが別の封筒ないし文書箱に移されたであろうことが推定される。したがって、『豊後切支丹史料』正編に採録されていながら本ファイル中に現存しない文書についても、偶然による紛失などではなく、マレガの意図によって抜き取られた可能性が高いのではなかろうか。なお、マレガがローマ法王に『豊後切支丹史料』正・続編と島原の乱関係の版本を献上したことは既に紹介されているが(シルヴィオ・ヴィータ「豊後キリシタンの跡をたどるマリオ・マレガ神父―マレガ文書群の成立過程とその背景―」『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』第12号、平成28年、163頁)、それ以外にも原文書の献納のあった事実が、上記の事例から新たに判明する。

なお、本ファイルには、その形成や『豊後切支丹史料』正編の編纂作業の様子を断片的ながらうかがうことのできる文書がいくつか含まれている。たとえば、マレガ番号B315の「正徳元年卯十二月廿日切極」という文書(A2.4.7.1)に附属する紙片(A2.4.7.2)には「切支丹本人本人同然及類族存命調 五円」という手書きのメモが残されており、本ファイルのある部分は購入によって形成されていることが確認できる。購入による文書の蒐集は他のファイル(たとえばA1)でも確認され、その購入先は大分市堀川町でかつて営業していたハレルヤ書店であったことが紹介されているが(佐藤晃洋「マレガ・プロジェクトに係る平成二五年度概要調査」『大分県立先哲史料館 史料館研究紀要』第19号、平成27年、39~40頁)、先程紹介したものとは別のマレガ番号B315に附属する紙片(A2.4.9.2)にも、売価3円というハレルヤ書店の値札が貼り付けられていることから、ファイルの形成において同書店が一定の役割を果たしていることがここからも確認できる。また、先にも紹介したように、本ファイルには文書の筆耕原稿が数多く含まれているが、その原稿の翻刻の訂正をマレガに連絡した葉書が2通確認される(A2.2.4.1、A2.2.9.2)。葉書の差出人はそれぞれ、今村孝次(明治8年・1875~昭和16年・1941)と高山英明(明治5年・1872~昭和29年・1954)である。今村は、昭和戦前期に昭和実践女学校(現、別府大学附属高等学校)の校長を勤めた教育者で、『大分県史』編纂を委嘱され数多くの論文を執筆している郷土史家でもある(佐藤義詮「後記」今村孝次『二豊人文志』、朋文堂、昭和18年)。高山は、昭和4年(1929)から7年(1932)まで大分市長を勤めた政治家で、大友宗麟をはじめとする郷土の歴史的顕彰・保存に尽力している(吉田豊治「高山英明」大分合同新聞社編『大分県歴史人物事典』、大分合同新聞社、平成8年)。マレガによる『豊後切支丹史料』編纂・出版の背景には、こうした地元人士の協力のあったことが確認できる。

使用言語

日本語、伊語、ドイツ語

記述日

2016/11/20

記述者

松澤克行

参照用画像