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守屋栄夫文書



守屋栄夫は、明治17年(1884)11月8日に守屋徳郎の長男として宮城県遠田郡富永村(現大崎市)に生まれた。24年(1891)に富永尋常小学校に入学、28年(1895)田尻高等小学校、32年(1899)古川中学校、36年(1903)9月第二高等学校を経て、39年(1906)東京帝国大学法律学科(独法)に入学した。43年(1910)7月に卒業、同年11月に文官高等試験に合格した。同年10月1日付で秋田県属として採用、44年(1911)4月内務属(土木局)、大正2年(1913)1月に地方局兼務、同年6月に千葉県理事官に任命、翌7月に視学官兼任となる。大正5年(1916)1月愛知県理事官兼視学官に異動、6年(1917)5月内務監察官兼内務省参事官に任命、7年(1918)12月浦潮派遣軍司令部政務部付となりウラジオストクへ派遣。8年(1919)4月に帰京し、同年8月9日内務省専任参事官兼府県課長、12月朝鮮総督府秘書官兼参事官に任命、11年(1922)10月朝鮮総督府庶務部長事務取扱に異動、12年(1923)1月より11月まで欧米視察、その間の9月朝鮮総督府庶務部長(高等官二等)に任命された。13年(1924)内務省社会局第二部長に転任、14年(1925)5月第7回国際労働会議に日本政府代表としてスイス・ジュネーブへ派遣。15年(1926)4月内務省社会局社会部長に任命、昭和2年(1927)叙従四位勲三等(高等官一等)、3年(1928)1月内務省を退官し、弁護士登録。同年2月衆議院議員選挙に宮城県第一区より立候補、第5位で当選、当初は後藤新平を擁立しようとしたが上手くいかず無所属。4年(1929)11月個人の政治団体である大日本昭和連盟を結成。5年(1930)2月衆議院選挙第5位で再選、7年(1932)衆議院選挙第2位で3選、9年(1934)岡田内閣で農林政務次官に任命される。11年(1936)2月衆議院選挙第2位で4選、同年4月農林政務次官を退任、同年5月第69回帝国議会が招集され、政友会除名組が前年12月に結成した昭和会に所属となる。12年(1937)4月衆議院選挙第4位で5選、同年5月昭和会解党、同年7月第一議員倶楽部所属。15年(1940)8月第一議員倶楽部は解党し大政翼賛会へ合流。17年(1942)2月衆議院議員のまま塩竃市長に当選(名誉職)、同年5月衆議院選挙第2位で6選、叙勲二等、21年(1946)6月塩竃市長を辞職、公職追放となる。追放中は弁護士や各種団体の顧問・理事として活動する。26年(1951)追放解除、27年(1952)9月衆議院選挙に無所属で立候補するが落選、政治活動から身を引く。48年(1973)2月1日死去。なお、守屋栄夫の名は「エイフ」と呼ばれているが、内務省時代のパスポートでは「SAKAO:サカオ」となっている。いつから「エイフ」となったか定かではないが、衆議院選挙に立候補した頃に「エイフ」と呼称するようになったとも推測される。家族関係については明治38年(1905)1月に今野好と結婚し、4男3女が生まれた。昭和14年(1939)前妻と死別し、昭和18年(1942)11月2男2女の母、斎藤菊代と再婚して2男1女が生まれた。 。19434点。

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