【守屋栄夫文書||MORIYA,Eifu Papers】
識別記号 ac2007012
資料記号 2007L
標題 守屋栄夫文書||MORIYA,Eifu Papers
年代 1907年~1956年
主年代
年代注記
記述レベル fonds
書架延長/数量 81m/18100点
物的状態注記
出所・作成 守屋栄夫
履歴 明治17年(1884)11月8日に守屋徳郎の長男として宮城県遠田郡富永村(現大崎市)に生まれた。24年(1891)に富永尋常小学校に入学、28年(1895)田尻高等小学校、32年(1899)古川中学校、36年(1903)9月第二高等学校を経て、39年(1906)東京帝国大学法律学科(独法)に入学した。43年(1910)7月に卒業、同年11月に文官高等試験に合格した。同年10月1日付で秋田県属として採用、44年(1911)4月内務属(土木局)、大正2年(1913)1月に地方局兼務、同年6月に千葉県理事官に任命、翌7月に視学官兼任となる。大正5年(1916)1月愛知県理事官兼視学官に異動、6年(1917)5月内務監察官兼内務省参事官に任命、7年(1918)12月浦潮派遣軍司令部政務部付となりウラジオストクへ派遣。8年(1919)4月に帰京し、同年8月9日内務省専任参事官兼府県課長、12月朝鮮総督府秘書官兼参事官に任命、11年(1922)10月朝鮮総督府庶務部長事務取扱に異動、12年(1923)1月より11月まで欧米視察、その間の9月朝鮮総督府庶務部長(高等官二等)に任命された。13年(1924)内務省社会局第二部長に転任、14年(1925)5月第7回国際労働会議に日本政府代表としてスイス・ジュネーブへ派遣。15年(1926)4月内務省社会局社会部長に任命、昭和2年(1927)叙従四位勲三等(高等官一等)、3年(1928)1月内務省を退官し、弁護士登録。同年2月衆議院議員選挙に宮城県第一区より立候補、第5位で当選、当初は後藤新平を擁立しようとしたが上手くいかず無所属。4年(1929)11月個人の政治団体である大日本昭和連盟を結成。5年(1930)2月衆議院選挙第5位で再選、7年(1932)衆議院選挙第2位で3選、9年(1934)岡田内閣で農林政務次官に任命される。11年(1936)2月衆議院選挙第2位で4選、同年4月農林政務次官を退任、同年5月第69回帝国議会が招集され、政友会除名組が前年12月に結成した昭和会に所属となる。12年(1937)4月衆議院選挙第4位で5選、同年5月昭和会解党、同年7月第一議員倶楽部所属。15年(1940)8月第一議員倶楽部は解党し大政翼賛会へ合流。17年(1942)2月衆議院議員のまま塩竃市長に当選(名誉職)、同年5月衆議院選挙第2位で6選、叙勲二等、21年(1946)6月塩竃市長を辞職、公職追放となる。追放中は弁護士や各種団体の顧問・理事として活動する。26年(1951)追放解除、27年(1952)9月衆議院選挙に無所属で立候補するが落選、政治活動から身を引く。48年(1973)2月1日死去。なお、守屋栄夫の名は「エイフ」と呼ばれているが、内務省時代のパスポートでは「SAKAO:サカオ」となっている。いつから「エイフ」となったか定かではないが、衆議院選挙に立候補した頃に「エイフ」と呼称するようになったとも推測される。 家族関係については明治38年(1905)1月に今野好と結婚し、4男3女が生まれた。昭和14年(1939)前妻と死別し、昭和18年(1942)11月2男2女の母、斎藤菊代と再婚して2男1女が生まれた。
伝来 2006年、国際日本文化研究センターの松田利彦氏が、国立国会図書館に所蔵されていた『守屋栄夫日記』を編纂した守屋孝彦氏(茨城大学名誉教授:守屋栄夫の長男伴男の三男)に問い合わせたところ文書の存在が明らかとなった。これを受けて、松田氏から国文学研究資料館の安藤正人(当時)および加藤聖文に対して、文書の受け入れ可否について問い合わせがあった。当館において守屋氏と面談の上、寄贈を前提として話を進めることとなり、2006年10月に大崎市の守屋家を訪問した。その場で、守屋氏が編纂に使用した日記(明治40年から昭和18年まで)と書類(製本された手稿類)、書籍数点を確認したが、その他の文書についても調査を行った結果、長屋門の一室および離れの倉庫に大量の文書(書類・書簡・書籍)が残されているのを確認した。当館では、故人の遺品として一部の絵葉書帳と写真を残し、書籍(破損分も含む)も含めて守屋家に残されているすべての文書を受け入れることとし、同年12月に国文学研究資料館(当時は品川区戸越)に搬入した。翌年には寄贈手続きを完了した後、燻蒸処理を経て2008年2月に当館の立川市移転に伴い、文書も立川へ搬入され、同年5月から2009年3月まで仮目録を作成し、2009年夏から一般公開を行った。なお、守屋栄夫は古川の生家の他に、塩竃市長時代以降、塩竃市にも本宅を構え、晩年の文書類(主に昭和19年以降の日記)は塩竃に残されていた。これらの日記(昭和19年~32年)は、書籍と合わせて2015年10月に守屋家から追加寄贈された。  文書全体は、守屋本人が几帳面であったことと、専用の部屋に配架されていたため、きれいに整理されていたと考えられるが、守屋死後に起きた地震によって配架されていた文書類が散乱したため、棚の配列などの原秩序は崩れている。ただし、重要文書や書簡に関しては木箱に収納され、麻紐などでまとめられていたため、原秩序は維持されていた。この他、自筆原稿など手稿類の一部は本人によって製本されていた。  なお、『守屋栄夫日記』に写真掲載されている浦塩派遣軍政務部付時代の研究ノート「西比利亜研究」は、寄贈前に紛失しており、当館所蔵文書のなかには現存しない。
入手源 遺族
範囲と内容 守屋栄夫文書は、守屋栄夫の衆議院議員時代、個人活動によって作成・収集された文書、刊行物が中心である。内容は(一)内務省・朝鮮総督府官僚時代の関連書類(業務文書・ノート・メモ・新聞切り抜き・書簡)、(二)衆議院議員時代の関連書類(議会・農林政務次官関係・議員活動・政党・選挙・議会刊行物)、(三)日記・手帳・ノート・写真・絵葉書・家族の文書など個人の活動に関わるもの、(四)書籍の執筆・雑誌への寄稿や講演の準備のために作成された草稿、(五)書籍・雑誌・行政資料などの刊行物、(六)書簡から構成される。なかでも衆議院議員時代の農林政務次官関係の文書類が数多い。その一方で、塩竃市長時代以降の文書は、戦後も含めてほとんどない。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語
物的特徴及び技術要件 一部雑誌などの書籍はネズミなどによる破損が見られる。
検索手段 『史料目録』第103・104集(2016・2017年)
原本の所在 国文学研究資料館(歴史資料)
利用可能な代替方式 韓国国史編纂委員会が2011年から2012年にかけて、朝鮮に関係する文書・書簡のマイクロフィルム撮影を行った。
関連資料 「斎藤実関係文書」(国立国会図書館憲政資料室)は守屋が朝鮮総督府時代の総督であった斎藤実の個人文書であり、斎藤宛の守屋書簡が含まれる。この他、朝鮮総督府時代から衆議院時代にかけて関係の深かった水野錬太郎の個人文書である「水野錬太郎関係文書」(国立国会図書館憲政資料室)も関連する。
出版物 『守屋栄夫日記』(守屋孝彦編・発行、2005年)。表題は日記であるが、日記を翻刻したものではなく、日記などを基に編集した守屋栄夫の事歴である。
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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