墨吉乃スミノエノ得名津爾立而エナツニタチテ見渡者ミワタセバ六兒乃泊從ムコノトマリエ出流船人イヅルフナビト

輪田泊
〔土佐日記〕
九日〈◯承平五年二月〉こヽろもとなさにあけぬから、船をひきつヽのぼれども、河の水なければ、ゐざりにのみぞゐざる、此間にわだの泊のあかれのところといふ所あり、〈◯下略〉

播磨國/高砂泊
〔高倉院嚴島御幸記〕
さるのとき〈◯治承四年三月二十一日〉に、高砂のとまりにつかせたまふ、よもの舟ども碇おろしつヽ浦々につきたり、御舟のあし深くて、湊へかヽりしかば、はしふね三そうをあみて、御輿かきすへて、上達部ばかりにて、御舟に奉りし、

室泊
〔播磨風土記  揖保郡〕
【室原泊】ムロフノトマリ以號一レ室者、此泊防風如室、故因爲名、 ◯按ズルニ、室原泊ハ、三善清行ノ封事ニ檉生ムロフ泊トアリ、即チ室泊ニ同ジ、

〔源平盛衰記  七〕
成親卿流罪事 大納言ハ死罪ヲ宥ラレテ、流罪ニ定リヌト聞エケレバ、相見事ハ堅カリケレ共、是ハ小松内府ノ、ヨク〳〵入道〈◯平清盛〉ニ申給タルニコソ、〈◯中略〉月名ニシオフ明石ノ浦、エイ崎、林崎、小松原、高砂ヤ尾上ノ松モ過ケレバ、室ノ泊ニ著給フ、〈◯下略〉

〔山槐記〕
治承三年六月廿二日己酉、今夕前太政大臣殿、〈◯平清盛〉自伊都伎島還向給云々、〈◯中略〉御共侍民部大夫政清曰、〈◯中略〉十一日未明、出御船、〈◯高倉〉巳刻過

〔高倉院嚴島御幸記〕
むまのとき〈◯治承四年三月二十二日〉かたぶきし程に、むろのとまり○○○○○○につき給、山まはりて、そのなかに、いけなどのやうにぞみゆる、ふねどもおほくつきたる、そのむかひに、いゑじまといふとまりあり、つくしへときこゆる舟どもは、かぜにしたがひて、あれにつくよし申、むろのとまりに、御所つくりたり、御舟よせておりさせ給、御ゆなどめして、このとまりのあそびものども、ふるきつかのきつねの、ゆふぐれにばけたらんやうに、我も〳〵と御所ちかくさしよす、もてなす人もなければまかり出ぬ、