古事類苑>地部三十七>道路>道法
第 3 巻 40 頁 画像表示

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とづきて算ふる時は、一町は四十丈なり、若し是を六十間とみれば、一間は六尺六寸六分有餘なり、一間の尺寸和漢ともにいぶかし、〈右御伽雙紙は、算術士中根保之丞法艘所著、〉

〔筆のすさび  一〕
一里程 我邦の一里は、西土の十里にあたること、彼方の書にても、しば〳〵見ゆれば、記事の文、或は詩にても、吾土の一里は十里といひても通ずべきこと論なし、然れども誦して響のよろしからぬ事もあるやうにおもはるれば、是を竹山先生に問ひしに、竹山の云へるは、周の時の書に、なほ夏正を用ふるもの多し、吾邦の里程、今の法に改りしは、何時の事か明ならざれども、奧羽の地は、猶昔の里程にて計るとぞ、されば官府へ奉る文書にもあらず私に記するには、いづれにても然るべきならんと、これによりて、余が詩にも百里を千里と用ひしなり、

〔新編常陸風土記  六〕
行路 凡古ノ里數ハ三千六百歩ヲ一里トス、俗間ニ所謂六町一里ナリ、天正文祿ノ際、豐臣太閤ノ制ニヨリ、ナベテ三十六町ヲ一里トス、神祖又其法ニ准ジテ一里塚ヲ築ク、コレヨリ後悉ク是制ニ從フ、

〔梅園日記  四〕
一里町數 玉勝間に、道の程を三十六町を一里とするは、いつの世よりのさだめならん、〈◯中略〉とあり、按ずるに語林類葉に、上の文を擧て、又云、太平記卷十三、〈龍馬奏進の條〉今朝卯の刻に、出雲のとんだを立て、酉の刻のはじめに京著す、其道すでに七十六里とあり、拾芥抄田籍部云三十六町爲一里とあるは、富士の道記よりは、太平記先なりとの意なるべし、なほ先なるは、東大寺造立供養記に、文治二年周防國より材木を出しヽ事を記して、木津至于海七里、注に三十六町爲一里とあるは、東國の一里は六町にてたがへば也、明惠上人渡天行程記に、從大唐長安京、到摩訶多國王舍城五萬里、〈小里定也、六町一里定、按に原本此注逸す今補ふ、〉即當八千三百卅三里十二町也、〈大里○○定也、三十六町一里定、〉百里〈小里○○〉十六里廿四町〈大里定也〉とある