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日本実業史博物館とは 
 渋沢栄一が1931(昭和6)年11月11日に死去した後、遺言によって渋沢栄一邸の寄贈を渋沢記念財団竜門社が受けました。現在の北区飛鳥山公園内にある、約8470坪ほどの敷地及び建物です。1937(昭和12)年5月、(財)竜門社は、旧渋沢栄一邸の利用に関する委員会を設置し、渋沢子爵家を栄一より継承した嫡孫の渋沢敬三ら9名に委員を委嘱します(当時、敬三は(財)竜門社の評議員)。そして、この委員会は答申を提出し、同年7月15日に財団の理事会・評議員会において、「渋沢青淵翁記念実業博物館」の建設が決議されます。この決議された計画案は、渋沢敬三の「一つの提案」をベースにしたものでした。
 渋沢敬三による「一つの提案」で示された「近世経済史博物館」の設立が構想されました。構想にあたった渋沢敬三について、準備室員であった遠藤氏は、「記念室については祭魚洞先生(渋沢敬三)の提案もあって、折角お爺さんの為に財界の人達が御考え下さっていることは大変有難いことであるが、それならばそれを敷衍した経済史的な博物館を、渋沢家も御手伝してつくりたいことを申しのべ、ここに祭魚洞先生に資料の蒐集・保存・管理及博物館計画までの一任されたのであった。」(遠藤武「祭魚洞先生と民具―日本実業史博物館始末期―」)と記しています。
 その計画は(財)竜門社の事業として動き出し、1939(昭和14)年5月13日、渋沢栄一生誕百年記念祭に際し、「渋沢青淵翁記念実業博物館」建設地鎮祭を挙行します。この建設は、戦時経済統制の強まりにより竣工には至りませんでした。その後も「日本実業史博物館」の名称でもって、その設立に向け、資料の収集および展示・収蔵のための施設の設置場所の模索が続けられたが、実現されることはありませんでした。まさに「幻の博物館」となったのです。